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2011.01.31

「今年もよろしくお願いします。」

今年は久しぶりに冬らしい気候のように感じていますが、
皆様いかがお過ごしでしょうか。

新年も早いものでもうひと月が経ちました。
昨年も色々な事があり、またいろいろな人と出会いました。
その中で思ったこと、感じたことも多々あり感謝の気持ちです。

2011年も私たちにとり良き年になりますよう、祈念いたします。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。



2010.01.31

「本年も」

よき年になります様、心よりお祈り申し上げます。

昨年は自分にとって研鑽を積む機会に多く恵まれ、有難く、実り多き年であったと感じています。

今年はその中で私なりに体験したことや、理解したことを 色々なかたちで皆様と分かちあっていけたらと思っております。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。



2009.03.08

「原田美佳子氏 講演会のお知らせ」

眼からウロコの講演会です。

鹿児島県の指宿市にある(財)メディポリス医学研究財団付属医院の院長、原田美佳子先生の講演会を来る3月14日(土)に九州女子大学耕学館にて行います。詳細はコチラ

講師の原田先生は、現在、「自然治癒力」を癒しの原点に置くホリスティック医療・統合医療の分野の最前線でご活躍の医師です。アメリカのホリスティック医療の第一人者であるアンドリュー・ワイル博士のもとで学ばれ、日本のホリスティック医療の草分け的存在である医師、帯津良一先生の病院で勤務された経験を持ち、お二人のご信頼・ご期待の厚い先生です。

西洋医学の良い所、東洋医学の良い所、その他代替医療の良い所を積極的に取り入れていくホリスティック医療・統合医療の観点は、これからの私たちの病気に対する考え方に大きな希望や可能性を感じさせてくれるものと思っています。

皆様のご参加を心よりお待ち申し上げております。

ヒドゥン・トレジャー  スタッフ一同



2009.01.29

「おめでとうございます」

1月ももう終わろうとしておりますが、新年おめでとうございます。

昨年も様々な事がありましたが、支えてくださった皆様に 心より御礼申し上げます。有難うございました。

今年もまた、たくさんのことが起こるでしょうが、喜んだり、 哀しんだり、怒ったり、笑ったりしながら、味わっていきたいと思っています。

皆様、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。



2008.07.24

「Like a Rolling Stone」

「どんな気がする/家がないことは/ひとりぼっちで/
人からもぜんぜん知られないで/ころがる石のようであることは」

    “Like a Rolling Stone (ボブ・ディラン詞)より”

先日、ある新聞にボブ・ディランの記事が載っていました。
ディランを描いた映画作品の紹介をかねて彼について書いてありました。

触発されて久しぶりに彼の音楽を聞いたのですが、いいですねー。
以前は詩についてあまり感じようとしていなかったのだと思いました。

上記のフレーズ(どんな気がする―)に僕はとても心動かされるものがあります。
評論家の中にはこれはキリギリス的な生き方に対する戒めの歌だという人もいるようですが、どうでしょうか。
たしかに一見根無し草で哀れな感じに聞こえるかもしれませんが、僕には外側のもの(財産や地位、名誉等)から解放され大いなる自由を手に入れているようにも聞こえるのですが・・・・・・。
皆さんはどう感じられるでしょうか。
とはいえ、社会の中で生きている以上、色々なものに拘束されないわけにはいきません。
将来のことを考え、生計のことを考え、家族のことを考える等々・・・。
これは至極当然の事だと思います。
だが、そうであるにしろ、拘束しているものを少しずつでも脱ぎ捨て、より自由になっていきたいというのも自然な働きなのではないでしょうか。

あるインド人のグルの言葉を思い出しました。

「何者かであろうとする、その欲望。その欲望そのものを落としなさい。
それ(その欲望)は自分自身に出会うことの旅路から、どんどん
遠ざけてしまうことだよ。」

その欲によって人はそわそわし始め、落ち着かなくなる。
何かをしていないといけない。何かを達成しなくてはいけない。
人から注目されなくてはいけない etc・・・。
そうして、全体から切り離され、大いなるものが流れ込んで来ることを自らでブロックし続けるのかもしれません。

記事の中にディランを評して、こんな考察がありました。
 「成熟を拒否し、根を張らず、何者でもないものであり続ける―」
彼はいわゆる有名人ですが、それでも、僕らにつきつけようとしているものは一体何なのでしょう。



2008.04.04

「自灯明」

「岸に上がることは夢だと思っている間は、岸は見えてきません。」

この言葉が、頭に残り、浄土真宗の僧侶である、井出住職を訪ねました。

以前、知り合いの方お二人から、おもしろい方だから、一度訪ねてみてはと、ご紹介があったのですが、機会がなかなかありませんでした。

先日ふとした折に、以前に知人からいただいていた、ご住職の著作を手に取り読んでいるうちに、前述したフレーズを見つけて、是非お会いしたく、訪問させていただきました。
急な訪問にもかかわらず、こころよく迎えていただき、感謝しております。

ご住職は、学生の時分、空手部の主将をつとめており、創部以来始めて、東大空手部を優勝に導いた方だと、知っていたので、かなりの猛者(もさ)の イメージがあったのですが、お会いしてみると、ゆったりとした、あたたかく優しい方でした。
ご紹介してくださった方々以外にも共通の知人も多く、つながりの有難さを感じました。

青年時代、幾つかの新興宗教団体と関わりを持たれ、また、そこから離れた経験も もたれている、ご住職のお話は大変興味深いものでした。

ご住職の言葉を借りると、どんな組織、団体の中に属していても、「眼ン玉一つだけは 外に出しておく」といううことが大切であるとおっしゃっていました。

僕なりに言い換えてみるとそれは、どんな思想体系や観念体系のグループの中に、身をおいていても、自らの視点を持ち続けていることが大切である。という事だと思います。
また、自らの視点というものも、常に、外側からの判断を入れずに、自分自身を見つめ続けるということによって培われていくものだと感じています。
自我は、色々な価値判断をもち、トリッキーなので、なかなか難しいのですが・・・・・・・。

また、不可思議な現象や、サイキックな能力に魅せられている人の危うさについての話にもなりました。
それらの事は、あくまで自身の内奥へのつきることのない探索の旅の途上で付帯的に現れてくる可能性のあるものであるにもかかわらず、それそのもの(サイキックな能力等)を獲得する事がゴールの様になってしまう。自ら遠回りなプロセスにしてしまうと思われる事が、度々起こっているように、僕自身には感じられます。

自分が能力を持つことによって、他の人々より優越したような気分(本人はトリッキーな自我機能によってそれを否定するかもしれませんが)に浸ろうとする時、それは単に、自我肥大であり、自分のコンプレックスから未だ解放されていない事を自身に露呈しているにすぎないのではないか。
強く言えば、他者の反応に対しての隷属ともいえるのではないでしょうか。

知らず知らずのうちに、上から目線になるようなアホなことにはなりたくない。
そのためにもクリアーな眼を持って自分自身と向き合い、どこまでも自分自身でありたい−−−強くそう思います。

「自らを灯火として生きなさい」

釈迦の最後の教えの一つです。



2008.04.03

「雑感」

先日あるワークショップに参加させていただいた時の事です。
ワーク中に自分の中にある言葉が湧いてきました。

“We all are lonely boys and girls who are seeking for the love.”

訳すと、自分の感覚を伝えにくくなると感じられるので、
読まれた方が、それぞれで感じてくださればと思います。

僕にとっては、この言葉が現れて、とても暖かい気持ちになりました。
皆それぞれが、共通の一つの願いを持つものだと感じたからです。

いずれの時にか、それが満たされんことを祈りつつ。



2008.01.30

本年もよろしくおねがいします

あけましておめでとうございます。
早いもので、後数日で2月になりますね。皆様いかがお過ごしでしょうか?

ぼんやりとですが、今年のテーマというものが、自分の中でだんだん形作られて来ていると感じています。
この一年私が意識していきたい大きなことの一つとして、
「今までの思い込みなどの思考パターンや、無意識的なカラダ・心の反応パターンから、より解放され、自由になっていきたい」
ということがあります。

言い換えれば、それらのことは、脳というタンパク質の中に根付いた“自分”というものから自由になっていく、という風にも表現できるかもしれません。
また、禅の中でよく言われる「分別を超える」ということ(分別というのはこの場合、善いとか悪いとか、上とか下とか、自分とか他人とか、比較したり区別したりするということです)とも似ていると感じたりもします。
そのプロセスの中で体験する様々なことを楽しみにしていきたい。そんな気持ちでいます。

皆様本年もどうぞ宜しくお願いします。

2007.12.28

ご無沙汰しておりました

お久しぶりです。 ご無沙汰しておりました。
ここ数カ月、自身の充電のためと称し(?)、様々な場所を訪れたり、ワークショップ等に参加したりしておりました。
臨時店休等でご迷惑をおかけした方々にお詫び申し上げます。

自己探究他者理解というものは、深めようとすればするほど自身の今までに培われてきた反応パターンに直面し、時に愕然としたりしますが、そのカラクリを知ることは、反面、喜びにもつながるように思えます。
カラクリを認識していくことで、カラダも心も以前より自由に柔らかくなる感覚を覚えるのは、当然のことながら、私の個人的な体験だけではないでしょう。

(心身の)柔軟性を得ていくことで受ける重要な恩恵の一つとしては、善い悪いなどの比較対称概念から自由になっていくことではないかと個人的には感じています。
「〜しなければならない」や「〜すべきだ」という思いは、人をある面で向上させる原動力にもなる反面、その人の自由な感覚や感情、創造性を抑圧する可能性もあるのではないでしょうか。
抑圧されたそれらのエネルギーは行き場を失い、場合によってはその本人をコントロールし、苦しめることもあるかもしれません。
一般的に言われるゆがんだ情動や衝動はここから生まれるのかもしれません。

すべての自分の感覚や感情を判断なしに受容していくことは矛盾しているようですが、ゆがみの少ない自己実現への近道のように感じています。
少なくとも「好きなものは好き」、「嫌いなものは嫌い」と素直に自分の中で感じ、認めることは(特にそれを外側に表す必要はありませんが)大切だと感じます。

「ポジティブシンキング」や「ネガティブシンキング」という概念をよく耳にしますが、どうも自分にはそれらの概念が薄っぺらに感じられてなりません。
苦しい時は苦しいし、楽しい時は楽しい。哀しい時は哀しく、嬉しい時は嬉しい。
心の素直な流れを頭でせき止める必要があるのでしょうか?もしかしたら、その時々の自分の気持ちを余すことなくカラダで心で感じきってあげることで、感情の振幅は徐々に小さくなり、「安らぎ」というものに近づいていけるのかもしれません。
ここ数カ月の間、そのようなことを折にふれ感じています。

今年もあとわずかですが、皆様ご自愛ください。
(多分?)今年最後のブログになると思います。
来年はもっとたくさん更新していきたいと思っています。
それでは皆様、よいお年をお迎えください。

2007.07.28

分かち合うこと・支えあうこと

先日、ある所でダルク(DARC = Drug Addiction Rehabilitation Center)という施設のスタッフの方達とお会いしました。この施設は、以前に薬物依存症であった人によって運営される民間のリハビリ施設で、依存症者の薬物依存からの回復、そして社会復帰を目指して活動を続けています。ダルクにつながることで、それまで医療や司法、学校や地域からも見放された多くの依存症の人達が、見事に回復されているようです。
お会いした方達は、他にも刑務所でのプログラムや学校での講演などにも積極的に取り組んでいらっしゃいました。スタッフの方お二人とも、とても誠実で温かい感じの方であり、また、どこかで大きな困難を乗り越えた人間の持つ達観した柔軟な透明感のようなものを感じました。

ダルクはNA( Narcotics Anonymous 《ナルコーティクス・アノニマス》=『無名の薬物依存者たち』という意味 )グループとも呼ばれています。NAは組織を持たない開かれた共同体で、会長や役員はなく、名前も職業も肩書きも一切語る必要はない自助グループだそうです。グループでは定期的にミーティングが行われ、その中でメンバーの方達が、押し付けられることなく自分の体験を語り、他のメンバーの話に耳を傾けるそうです。回復へのステップの一つの参考として、「NAの12のステップ」というものがあります。興味深いものだったのでご紹介します。

<NAの12のステップ>

1. 私達は、アディクション(薬物依存)に対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなったことを認めた。
2. 私達は、自分より偉大な力が、私たちを正気に戻してくれると信じるようになった。
3. 私達は、私たちの意志といのちを、自分で理解している神(ハイヤーパワー)の配慮に委ねる決心をした。
4. 私達は、探し求め、恐れることなく、モラルの棚卸表を作った。
5. 私達は、神に対し、自分自身に対し、もう一人の人間に対し、自分の誤りの正確な本質を認めた。
6. 私達は、これらの性格上の欠点をすべて取り除くことを、神に委ねる心の準備が完全にできた。
7. 私達は、自分の短所を取り除いてください、と謙虚に神に求めた。
8. 私達は、私達が傷つけたすべての人のリストを作り、そのすべての人達に埋め合わせをする気持ちになった。
9. 私達は、その人達、または他の人々を傷付けない限り、機会あるたびに直接埋め合わせをした。
10. 私達は、自分の生き方の棚卸を実行し続け、誤った時は直ちに認めた。
11. 私達は、自分で理解している神との意識的触れ合いを深めるために、私達に向けられた神の意思を知り、それだけを行っていく力を、祈りと黙想によって求めた。
12. これらのステップを経た結果、スピリチュアルに目覚め、この話をアディクト(依存症者)に伝え、また自分のあらゆることに、この原理を実践するように努力した。


ステップの中にある、“自分で理解している神”とは、特定の宗教の神ではなく、自分が信じているもの、大切にしているもの、神でも仏でも自然でも宇宙でも、人によってそれぞれの対象ということです。このステップを見て、色々な事を感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

スタッフのお一人がおっしゃっていた言葉で、深く胸に残る言葉がありました。

「自分がいつの間にか変わることができたのは、多分、他の人と、自分の気持ちや苦しみを心から分かち合うことができたからではないかと思う。」

一切の判断や指示のない、人と人との気持ちのシェアリング、そして支えあうこと。
改めてその重要さ、素晴らしさを感じました。


2007.06.11

つながっている

更新が遅くなりました。
自分の中でじっくりと消化したいテーマも手伝って 現在も引き続きゆっくりとしております。

このブログをお読みの方の中には、先月の山川紘矢・亜希子ご夫妻の講演会やセミナー等に ご出席下さった方もいらっしゃるかもしれません。 この場を借りてお礼申し上げます。ご参加有難うございました。 また、お手伝い下さったスタッフの方々にも心よりお礼申し上げます。 おかげ様でよいイベントになったと感謝しております。 僕自身も、今回沢山の気づきや学びをいただけたことを大変有難く感じています。

イベント後も有難いシンクロが続きました。 旅先で、僕と山川ご夫妻の共通の知り合いの方々とお会いしました。 ご夫妻も喜んでいらっしゃいましたが、僕にとってその方々とは8年ぶりの再会、 時折電話で話していたのでそれほど久しぶりとは感じなかったのですが、 思い返してみてびっくりという感じです。 お互いに第一声「どうしてこんな所にいるの?」でしたが、 すべては適切な時期に適切な場所で会うようになっているんですね。 その方の曰く、「何時何分にどこで会いましょうとアポイントを取るより、 自分たちのインナーネット(内的つながり)に任せている方が、よっぽど確実なんだよね」と。 まったくその通りです。 その方々のおかげで、今、僕が興味を持っている分野の方達と知り合うことができました。 全て必然ということなのでしょうね。 有難い限りです。

私達はついつい(?)意図的に人生設計というプランを立ててしまいがちですが、 時折それがかえって足かせになることがありませんか。 自分を振り返ってみても、全て計画通りだとはとても思えません。 それなのに、計画通りに行かなかったらどうしようなどどいう不安やプレッシャーは付きまとうし、 かといって無計画でいるのも不安になる。 それが何であろうと「必然の運命を喜んで受け入れる」だけの覚悟があれば・・・と思うのですが。 なかなか難しいものです。

山川紘矢さんのおっしゃった言葉で、とても印象に残る言葉がありました。
それはどんなことにも抵抗しない。抵抗するとその対象にもっと力を与えることになるということです。 人生のいろんな場面に当てはまる気がします。

2007.05.14

初めに

ホームページ開設にあたり、皆様にごあいさつ。
ようこそ当ホームページへおいで下さいました。

当方、2001年より営業を開始しておりましたが、ホームページ開設に踏み切るのに6年の歳月を要しました。その間、たくさんの方から、開設についてのご提案・ご要望をいただきましたが、管理人の個人的な事情(怠惰)により、運営を開始いたしませんでした。
しかし、ようやくその気になり、ホームページを立ち上げた次第であります。当方、セラピー・物販と、両方行っておりますが、どちらも「より生き生きと生きる」手助けになればという私共の思いを最重要の事として、これからも運営していきたいと思っております。

さて、ヒドゥン・トレジャーという名前についてですが、他のコンテンツでも若干触れていますが、由来は、管理人が米国留学中に大学でのインターンシップで働いていた施設での体験から生まれました。
その施設はメンタルイルネス(心の病)を抱えている方たちの社会復帰の手助けをするための施設です。僕(管理人)は、そこで働きながら、多くのことを学ばせていただけたと感じています。

一つは、精神疾患という凄まじく過酷な状況にありながら、その苦しみに耐えて、なお、社会のため、人のためになりたいという心を持ち続けておられる方々――もちろん全ての施設のメンバーがそうであったとは言えませんが、多くの方達にその心を感じました――そこに、ある種の純粋性を見るのは、僕だけではなかったと思います。そして、自分の傲慢さや欺瞞に満ちたエゴイスティックな感情に気づくたび、それを見ないようにしようとする自分の心理機能に愕然としたりもしました。施設のスタッフとして関わっているうちに、教えていただいているのは自分の方だと思うこともしばしばでした。

その施設のプロジェクトの中で、「ヒドゥン・トレジャー」というものがありました。当方の名前はそれに因んでいます。「人は皆、一人一人が宝である」 この事は、この施設での体験で僕が教えられた最も大きな事のようです。
しかし、いつまでも「hidden(隠された)」ではなく、人はその宝を自分の内に発見し、大きな喜びと安らぎを得るために生きていると感じます。そして、このことによって、より生き生きと生きることができると思います。そのために、微力ながら、何かのお役に立ちたい。そんな思いから、ヒドゥン・トレジャーは始まりました。

皆様、どうぞよろしくお願いします。

 

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