2008.04.04
「自灯明」
「岸に上がることは夢だと思っている間は、岸は見えてきません。」
この言葉が、頭に残り、浄土真宗の僧侶である、井出住職を訪ねました。
以前、知り合いの方お二人から、おもしろい方だから、一度訪ねてみてはと、ご紹介があったのですが、機会がなかなかありませんでした。
先日ふとした折に、以前に知人からいただいていた、ご住職の著作を手に取り読んでいるうちに、前述したフレーズを見つけて、是非お会いしたく、訪問させていただきました。
急な訪問にもかかわらず、こころよく迎えていただき、感謝しております。
ご住職は、学生の時分、空手部の主将をつとめており、創部以来始めて、東大空手部を優勝に導いた方だと、知っていたので、かなりの猛者(もさ)の
イメージがあったのですが、お会いしてみると、ゆったりとした、あたたかく優しい方でした。
ご紹介してくださった方々以外にも共通の知人も多く、つながりの有難さを感じました。
青年時代、幾つかの新興宗教団体と関わりを持たれ、また、そこから離れた経験も
もたれている、ご住職のお話は大変興味深いものでした。
ご住職の言葉を借りると、どんな組織、団体の中に属していても、「眼ン玉一つだけは
外に出しておく」といううことが大切であるとおっしゃっていました。
僕なりに言い換えてみるとそれは、どんな思想体系や観念体系のグループの中に、身をおいていても、自らの視点を持ち続けていることが大切である。という事だと思います。
また、自らの視点というものも、常に、外側からの判断を入れずに、自分自身を見つめ続けるということによって培われていくものだと感じています。
自我は、色々な価値判断をもち、トリッキーなので、なかなか難しいのですが・・・・・・・。
また、不可思議な現象や、サイキックな能力に魅せられている人の危うさについての話にもなりました。
それらの事は、あくまで自身の内奥へのつきることのない探索の旅の途上で付帯的に現れてくる可能性のあるものであるにもかかわらず、それそのもの(サイキックな能力等)を獲得する事がゴールの様になってしまう。自ら遠回りなプロセスにしてしまうと思われる事が、度々起こっているように、僕自身には感じられます。
自分が能力を持つことによって、他の人々より優越したような気分(本人はトリッキーな自我機能によってそれを否定するかもしれませんが)に浸ろうとする時、それは単に、自我肥大であり、自分のコンプレックスから未だ解放されていない事を自身に露呈しているにすぎないのではないか。
強く言えば、他者の反応に対しての隷属ともいえるのではないでしょうか。
知らず知らずのうちに、上から目線になるようなアホなことにはなりたくない。
そのためにもクリアーな眼を持って自分自身と向き合い、どこまでも自分自身でありたい−−−強くそう思います。
「自らを灯火として生きなさい」
釈迦の最後の教えの一つです。